現代の自動車、特に電気自動車(EV)やコネクテッドカーは「走るスマートフォン」とも称されます。地図のリアルタイム更新、自動運転アシスト、エンタテインメント機能、そしてOTA(Over-The-Air:ソフトウェアの無線アップデート)やeSIMの搭載により、高度な携帯電話通信技術(4Gや5G)が不可欠となっています 。
しかし、ここで自動車業界にとって前代未聞の経営リスクが浮上しています。それが「通信の標準必須特許(SEP)」を巡る法廷闘争です 。

なぜ、畑違いのはずの自動車メーカーが通信特許で次々と訴えられるのでしょうか?「通信モジュールベンダ(サプライヤー)が責任を負うべきでは?」という疑問の裏にある、世界の司法の現実とサプライチェーンの知財戦略を徹底解説します 。
1. 自動車なのに通信特許?「走るスマホ」が狙われる理由
かつての自動車は、数万点の機械部品を組み合わせた「スタンドアロン(完結型)」の製品でした 。しかし、IoT(モノのインターネット)の普及により、車両の中に世界共通の通信規格(4Gや5G)を取り込む必要性が生まれました 。
これらの通信規格には、Qualcomm、Nokia、Ericssonといった大手通信テック企業が数年、数十万時間をかけて開発した特許技術が無数に含まれています 。これらを「規格を利用する上で回避不可能な特許」=標準必須特許(SEP:Standard Essential Patent)と呼びます 。
通信業界は、自社で端末を作らずに特許ライセンスを主軸とする「Qualcommモデル」に代表されるように、特許権(知的財産)を強力なビジネス武器として活用する商習慣を持っています。あらゆるモノがネットに繋がるIoT時代において、彼らが次なる巨大なライセンス料(ロイヤリティ)の回収先として目をつけたのが、他ならぬ「自動車業界」だったのです。
2. なぜモジュールベンダではなく、自動車メーカー(OEM)が訴えられるのか?
ここで当然浮かぶ疑問が、「通信モジュールを製造・販売しているティア1(一次部品サプライヤー)などのベンダがライセンスを受け、知財責任を負うべきではないか」という点です 。
これには、世界の知財戦略における「License to All(LTA)」と「Access for All(AFA)」という2つのパラダイムの激突、そして「計算の根拠」を巡る経済的な対立があります 。
LTA(すべての人にライセンスを) vs AFA(アクセスできれば十分)
- License to All(LTA): 「部品メーカーであれ完成車メーカーであれ、希望するすべての事業者にライセンスを与えるべきだ」という、自動車メーカーやサプライヤー側の主張です 。
- Access for All(AFA): 「特許権者はライセンスを課す階層を自由に選べる。最終製品メーカー(自動車メーカー)とだけ一括契約を結んでも、部品メーカーが技術に『アクセス』できているならFRAND(公平・合理的・非差別的)違反ではない」という、通信テック(SEP権利者)側の主張です 。

世界の司法が出した結論:特許権者は「自動車メーカー」を狙ってよい
かつて米国やドイツ、そして日本政府の初期の指針(2020年のマルチコンポーネント製品に関するフェアバリューの算定の考え方)では、「サプライチェーンの透明性のために部品階層でのライセンス(LTA)が望ましい」とされていました 。
しかし、近年の世界の司法判断は「Access for All(AFA:完成車メーカーとの契約)」の合理性を全面的に追認しています 。
- 米国:Continental v. Avanci 判決(2022年) 大手自動車部品サプライヤーのContinentalが、通信SEPのパテントプール「Avanci(アヴァンシ)」を相手取り、「サプライヤーである自社へのライセンスを拒絶し、下流の完成車メーカー(OEM)ばかりを狙うのは独占禁止法違反だ」と訴えた歴史的な裁判です 。 結果、米国第5巡回区控訴裁判所はContinentalの訴えを全面的に退けました 。裁判所は、「SEPの権利者はサプライチェーンのどの段階でライセンスするかを決める裁量権があり、OEMレベルに絞って契約を求めても独占禁止法違反にはならない」と言い渡したのです 。
- ドイツ:Nokia v. Daimler(メルセデス・ベンツ)事件 ドイツの裁判所も同様に、Nokiaがサプライヤーではなく完成車メーカーであるDaimlerを名指しで提訴した際、その権利行使を正当と認め、最終的にDaimler側が個別ライセンス(後にAvanciへの合流)を受け入れる形となりました 。
3. なぜ通信モジュールベンダは「何もしていない」ように見えるのか?
上記の司法の現実を踏まえると、通信モジュールベンダが「何もしていない」ように見える理由が浮き彫りになります。彼らがサボっているのではなく、「契約したくても、SEP権利者やパテントプール(Avanci)から契約を拒否されている」というのが実態です 。
なぜ権利者はモジュールベンダと契約したくないのか?
理由は、ライセンス料の計算基礎( royalty base )にあります 。
- SSPPU(最小販売可能特許実施単位): 10〜15ドル程度の「通信モジュール」の価格をベースに特許料を計算するアプローチ 。
- EMV(市場全体価値): 数百万円〜一千万円を超える「自動車そのもの」の価値をベースに特許料を計算するアプローチ 。
通信テック企業やAvanciからすれば、15ドルの通信モジュールを基準に数%の特許料を計算するよりも、数百万〜数千万円の完成車を基準にした方が、圧倒的に高いロイヤリティを回収できます 。権利者側は、「通信モジュール単体は安価でも、車がネットに繋がる(5GやOTA)ことで、自動車全体の価値や自動運転といった高付加価値(EMV)が生まれている」と主張しており、この「完成車ベースでの回収」を確実にするため、モジュールサプライヤーとの契約を徹底して避けているのです 。

実際、自動車向け通信SEPプールの巨人である「Avanci」は、メンバー企業(特許権者)との間で「ライセンスの提供先は完成車メーカー(OEM)に限定する」という縛りを設けています 。

モジュールベンダを救う「Have-Made権」という仕組み
ただし、自動車メーカーがAvanci等とライセンス契約を締結すれば、その保護はサプライチェーンを遡って適用されます 。自動車メーカーが持つライセンスの効力(または、特許を『作らせる権利』であるHave-Made権)により、彼らに部品を納品しているモジュールベンダも自動的に特許侵害訴訟のリスクから免責される仕組みになっています 。そのため、モジュールベンダは「完成車メーカーが契約を終えるのを待つしかない」という不条理な構図が生まれているのです。
4. ライセンス料はモジュールベンダに負担させられているのか?「応分負担」の現実
「自動車メーカーが代表してAvanci等と契約するにしても、支払ったライセンス料(例:Avanciの5Gライセンスは車1台あたり32ドルの固定料金)を、後からモジュールサプライヤーに請求(転嫁)しているのではないか?」という疑問があります。
結論から言えば、「かつては転嫁を試みる完成車メーカーも多かったが、現在はサプライヤーによる強硬な拒絶(SEP免責)が進み、全額をサプライヤーに負わせることは実務上不可能になっている」というのがリアルな現状です 。
「いつもの特許補償(インデムニティ)条項」が機能しない罠
一般的な製造業の部品調達契約(基本取引契約)には、「サプライヤーが納品した部品が他社の特許を侵害していた場合、サプライヤーが自費で防御し、損害を全額補償する(特許補償条項)」という文言が入っています。
しかし、通信SEPにおいてこの文言をそのまま適用しようとすると、サプライチェーンが決裂します。
通信モジュールは1個あたり15ドル程度で販売されており、サプライヤーの利益はごく僅かです。これに対し、Avanciの5G特許料は「車1台につき32ドル」です。部品の販売価格や利益を遥かに超える特許料を、サプライヤーが全額補償(肩代わり)していたら、一瞬で事業が破綻してしまいます。
そのため、現在の部品調達実務においては、Tier1等のモジュールベンダから自動車メーカーに対し、「通常の特許補償は引き受けるが、4G/5Gなどの『通信規格に関する標準必須特許(SEP)』については補償対象から一切除外する(免責とする)」という特許補償契約の修正を強く突きつけるケースが世界のスタンダードとなっています。
サプライチェーンで「応分負担」するという考え方はあるのか?
日本政府(経済産業省)が策定した「標準必須特許のライセンスに関する誠実交渉指針(2022年)」では、特定の階層(LTAかAFAか)を強制して争うのではなく、製品の価値にその技術がどれだけ貢献したか(寄与率)を誠実に話し合うべきだとされています 。
実務的な落としどころとして、以下のような「応分負担」やヘッジの試みは議論・実行されています。
- 部品価格への技術価値の上乗せ: サプライヤーにライセンス料を負担させるのであれば、部品の納品価格自体を「SEPの技術的価値を反映した額」に引き上げる交渉
- 総額キャップ(上限)の設定: 自動車メーカーとサプライヤーの間で特許補償を完全免責にするのではなく、「部品価格の〇%、または〇ドルまでをサプライヤーが上限として負担し、それを超えるAvanci等のロイヤリティは完成車メーカーが経営リスクとして自ら吸収する」という分担契約
しかし、多くの場合、交渉力の強い巨大自動車メーカーであっても、世界規模での「Access for All」への移行とサプライヤーの防衛策を前に、「特許コストは完成車メーカー自らがコントロールし、予算化すべき経営コストである」という共通認識が定着しつつあります 。
5. 2026年最新動向:激化する「完成車メーカー vs 通信テック」の最終局面
自動車メーカーが自ら主役として知財リスクに向き合わなければならない現実を決定づける、最新のグローバル知財ニュースが相次いでいます 。
① 欧州委員会(EC)による「SEP規則案」の白紙撤回(2025年)
かつて欧州委員会は、自動車メーカー(実施者)の負担を軽減し、サプライチェーンの透明性をトップダウンで高めるべく、SEPの厳格な登録・判定制度を含む「SEP規則案」を提案していました。しかし、産業界や加盟国間での合意に至らず、2025年に正式に白紙撤回されました。これにより、政府の規制によってLTA(部品ライセンス)やSSPPUを強制する試みは事実上終焉を迎え、市場におけるAvanci(完成車ベースのEMVモデル)の優位性はより決定的なものとなりました。
② Nokia v. 吉利汽車(Geely)の5G訴訟と電撃和解(2026年5月)
中国の自動車大手である吉利汽車(ボルボやポルスター、ロータス等を傘下に持つ巨大グループ)は、Nokiaから4G/5G特許侵害で欧州統一特許裁判所(UPC)等に提訴され、激しい法廷闘争を繰り広げていました 。吉利は中国の裁判所を使って防衛しようと試みましたが、欧州の裁判所から莫大な過料を課す「AASI(反・反訴差し止め命令)」を突きつけられ、退路を断たれました 。 結果として、2026年5月21日、両者は電撃的にグローバル和解に達し、吉利汽車側がAvanciの5Gライセンスプログラムに合流した可能性が極めて高いと報じられています 。中国を代表する自動車大手が降伏し、完成車ベースのプール契約に応じたことは、未契約の他のグローバル自動車メーカーにとっても「サプライヤー任せにはできない」という最大の証明となりました 。
③ 日本初、SEPに基づく製品差し止め命令(2025年6月)
スマートフォン分野ではありますが、東京地裁は2025年6月23日、「パンテック v. グーグル」の裁判において、日本初となるSEPに基づくPixel 7の販売差し止めを命じる歴史的判決を下しました。この際、ブランドホルダー(完成品メーカー)であるグーグル側がライセンス料算定に必要な売上データを適切に開示しなかったことなどが「不誠実な実施者」とみなされる決定打となりました。完成車メーカー自身が主役として透明性のあるデータを開示し、誠実に知財交渉にコミットしなければ、日本市場であっても甚大な差し止めリスクを負う時代に突入しています。
6. まとめ:自動車メーカーに求められる「自覚と知財戦略」
「通信モジュールを仕入れているのだから、特許のことはサプライヤーが解決すべきだ」という古い日本の製造業マインド(理想論としてのLicense to All)は、世界の司法と市場の実務(Access for All)の前に完全に崩れ去りました 。
コネクテッドカーやEVを展開する自動車メーカーにとって、通信SEPは「回避できるかもしれない不具合」ではなく、「完成車メーカーとして自らコントロールし、車両原価に組み込むべき確実な経営コスト」へと変わっています 。最新のグローバル判例とパテントプールの仕組みを正しく理解し、サプライヤー調達契約(特許補償のキャップ設定など)の再点検を行うことこそが、IoT時代の荒波を生き抜く自動車メーカーの必須戦略です。
参照情報リスト
本記事は、以下の公的ガイドライン、司法判断、および専門メディアの最新レポート(2026年現在)に基づいて構成されています。
交渉プロセスにおける「誠実さ」の基準を提示した日本の公式指針(2022年3月31日策定)
世界のSEP主要判例や、マルチコンポーネント製品のフェアバリュー算定に関する考え方の議事録等を網羅する特許専門官庁のサイト
サプライヤーへのライセンス拒絶に関する独占禁止法上の判断を下した、AFA(Access for All)のリーディングケース
2026年のグローバル5Gコネクテッドカー特許戦争の裏側と、欧州の裁判所が突きつけた強力な救済措置のインパクトを詳細に解説した専門メディア記事
世界の主要自動車メーカーの大部分が加入している、コネクテッドカー向けワンストップ・ライセンスプラットフォームの公式規約
