1. はじめに:SEP=差し止められない、という常識の終焉
長らく日本の知財実務では、FRAND宣言された標準必須特許(SEP)に基づく差し止めは、2014年の「アップルvsサムスン事件(知財高裁大合議判決)」以降、実施者が誠実である限り「権利濫用」として認められないのが通説でした。
しかし、2025年6月23日、東京地裁は日本初となるSEP侵害を理由とした製品販売差し止め命令(パンテックvsグーグル事件、Pixel 7判決)を下しました。これにより、日本の知財環境は一変しました。いまや、交渉の進め方や訴訟への対応を一つ間違えれば、大手企業であっても製品の販売停止という致命的なリスクに直面する時代です。
交渉の誠実性(Willingness)判定の境界線表
同年に判断された「ASUS事件」と「Google(Pixel 7)事件」の対比から、裁判所が下した「誠実・不誠実」の境界線は以下の通り整理されます。
| 判断要素 | ⭕ 誠実(Willing)な実施者(例:ASUS事件) | ❌ 不誠実(Unwilling)な実施者(例:Google事件) |
| ライセンス受諾意思 | 必須性や有効性を争いつつも、FRAND条件での受諾意思を維持 | 形式的な交渉意思は見せるが、実質的な進展を拒む態度を継続 |
| 裁判所の和解案への対応 | 裁判所の提示する算定枠組みや手続きに協調的に従う | 大合議アプローチ等の提示に対し、複雑性を理由に実質的な協力を拒否 |
| 重要データの開示 | 適切なロイヤルティ算定に必要な販売データ等の提供に協力 | 機密性やラインナップの多様性を盾に、販売数量・価格データの提供を拒絶 |
| 裁判所の結論 | 権利濫用の抗弁が認められ、差し止め請求は棄却 | 交渉の可能性を自ら排除したとみなされ、販売差し止め認容 |
2. 誠実・不誠実の「公的な物差し」:経産省の誠実交渉指針
経済産業省が2022年に策定した「標準必須特許のライセンスに関する誠実交渉指針」は、法的拘束力はないものの、裁判所や実務者が誠実性を評価する際の「基本的な準則」として定着しています。本指針では、交渉の透明性を高めるための主要な4つのステップが定義されています。
ライセンス交渉の4ステップ
- 権利者によるライセンスオファー(特許リストやクレームチャートの提示)
- 実施者によるFRAND条件での受諾意思表明(「不当に遅延させない」ことが最重要)
- 権利者による具体的条件の提示(ロイヤルティ算出根拠の説明を含む)
- 実施者による対案の提示(権利者提案を拒否する場合は、FRANDな対案を提示する義務がある)
3. なぜグーグルは差し止められたのか? 判決から見える「不誠実」の基準
「Pixel 7事件」において、グーグルが不誠実(Willingでない実施者)と判断された決定打は、訴訟前の交渉初期段階ではなく、「裁判所が介在した後の和解手続きにおける態度」にありました。
- 知財高裁「大合議アプローチ」の拒絶
裁判所は過去の判例(Apple対Samsung)に基づき、端末価格に一定率を乗じる具体的なライセンス料算定基準(大合議アプローチ)の採用を提示しました。これに対しグーグル側は、自社の多様な製品ラインナップにおいてはこの計算モデルは複雑すぎるなどとして、実質的な協力を拒みました。
- 主要な販売データの開示拒否
ライセンス料の具体的な算定に不可欠な「対象製品の日本国内における販売数量」や「価格データ」などの提供を拒否したことが、裁判所から「交渉の可能性を自ら絶った不誠実な対応」と判断される最大の要因となりました。
- 二段階の判断枠組みの厳格化
裁判所は、当事者間の主観的な交渉履歴だけでなく、「裁判所主導の和解手続きにおいて、提示された合理的な指示や算定枠組みに対し、正当な理由なく従わないこと」を、権利濫用の抗弁を排斥(=差し止めを認容)する強力な根拠としました。
4. 差し止めリスクを回避するための実践的チェックリスト
最新の判例と指針に基づき、標準技術(4G/5G、Wi-Fi、Bluetoothなど)を実装するメーカーや実施者が取るべき防衛策を整理します。
- 「とりあえず拒否・引き延ばし」の厳禁
特許の有効性や不可避性(必須性)を法的に争う権利は保障されますが、それと同時に「FRAND条件であれば適切にライセンスを受ける意思がある」ことを初期段階から一貫して明確に表明(Willingnessの維持)しておく必要があります。
- 交渉プロセス・証拠の徹底的な記録化
経産省の4ステップに沿って、自社がどれだけ誠実かつ迅速に回答・対案を提示したかを、後に裁判所で客観的に立証できるよう、すべてのレターや議事録を証拠として厳格に保管します。
- 客観的なデータに基づく「FRANDな対案」の提示
権利者の提示するロイヤルティレートを拒絶する場合は、単に「高すぎる」と突っぱねるのではなく、自社が算出する客観的根拠(パテントプールレートや他社類似ライセンスの比較等)を伴った具体的な対案を提示する義務を果たします。
- 司法・裁判所の主導する手続きへの最大限の尊重
万が一、民事訴訟や和解手続きに発展した場合、裁判所から要請される販売データ等の開示や、提示される算定の枠組みに対しては、秘密保持契約(プロテクティブ・オーダー)等の適切な手続きを経た上で誠実に対応することが、差し止めを回避するための絶対条件となります。
5. まとめ:日本も国際水準の「誠実性重視」へ
今回のPixel 7判決により、日本のSEP実務は、ドイツ(連邦通常裁判所)や欧州統一特許裁判所(UPC)と同様に「交渉および司法手続きにおける実施者の誠実性を極めて厳格に問う」方向へと完全に舵を切りました。
自社製品がIoT、コネクテッドカー、スマート家電などで標準技術を利用している場合、交渉の不誠実な停滞は、もはや単なる戦術的な引き延ばし策にはなりません。一発で製品の国内販売が差し止められ、経営基盤を揺るがす「最大級の法的リスク」であることを再認識し、ライセンス戦略をアップデートする必要があります。
